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 ここ最近は行動的になってツイッターで見ず知らずの人とも会うことが多い。私はそういう時案外警戒心がなくふらふらと自分の心を開示させるので自分でも驚くことがある。会う前はドキドキなんて一切しない。ツイッターでの印象で他人をジャッチしないというのがスタンスとしてあるから楽に出会えているのだと思う。後、とりあえず笑っている。小さい頃から笑顔が素敵と褒められて育ったので、それだけは守るようにというか習慣になってしまっているのだなあと思う。

 

 ツイッターでは普段の日常生活では話せないこと、心に留まってることを多く書いたり写真や自分の関心のある情報をよくツイートするのでそれが好きな人たちが集まってくれて本当に嬉しいなあと思う。私が好きなものを好きに発信していくとそれを好きな人たちが自然と集まってくる。そういう流れが私は好きで、SNSはきっとこれからもやめられないんだろうなと思う。

 好きな人たちと会ってお話しするのは自己肯定感に繋がっている。嫌な声は遠のいていくのだなあと思う。

 これからもそういう出会いを大切にしていきたいなと思うし、人と会って自分のことをもっと知りたくなった。私は人と会いながら自分とも出会っているような錯覚に陥ることがあるけれど、他者を理解しようとすることは多くの場合それで自分を見るという行為なのだろうかと最近は思う。意識って自分の中にしかないから、だから人生ってずっと一人っきりなんだろうなと思うんだけど、だからこそ人と繋がっててもいいんじゃないかな。

 

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 散歩帰りの八重桜が綺麗だった。最近はあまり絶望的になったりしなくなったな。随分生きやすくなったと思う。絶望したり期待したり、行ったり来たりしながら日々の小さな楽しみや幸せを享受していけたらいいなと思うよ。

 

「答えを教えてください」という質問はあまりにも稚拙だ。「考え方を教えて下さい」でもなにか物足りないし、「こんなふうに考えたんですけど…」という問い方の方が議論は進む。

 わたしは誰かの答えを探る癖があって、答えを当てはめる答え方しか知らなかった。それがつまらなくて自分を殺すということを知らなかった。そもそもこの世には答えがないことの方が多い。彼らが知りたがっているのはどのような道筋や方法を駆使してそれを導き出したかの方だ。正しい答えや正しさを求めているわけではない。あらゆる人々を納得させようとする答えやその行為はほとんどの場合、というか生き続ける限り叶わない夢なのかもしれない。

 私は自分自身を納得させるための正しさしかわかるはずがない。

  アカデミックな場に身を置きたいというのが1年前のわたしの夢だった。それは学びが「わからないからおもしろくない」から「わからないけどおもしろい」あるいは「わからないからおもしろい」という感覚が徐々に自分の心に芽生えてきたから。

  論文や研究者の著書を読むことが、自分の精神を安定させるための手段になり、書かれた文章に一種の憧れや嫉妬を感じていた。綺麗に整理されている先行研究。誰もが思っていたことが言葉や文字、文章になって伝わってくる、今まで感じてたことが「わかってくる」(これは「わからなくなることがわかる」というのも含む)ことが楽しかった。

  でも、時々それは、誰かが明らかにしてくれたことを読むのが好きなだけであって、自分がまだ未知のものを明らかにあるいは証明したりすることが好きなのかと聞かれると、自分でも途端にわからなくなる。そもそも明らかにしたい対象や特異なフィールドを持っているわけではないので、研究生活は現実的に難しいことが少しずつわかってきた。

  私は一体何がしたいのだろう と自問自答する日々が続いた。勉強や研究をやってみたいという思いだけでは難しい現実。そういう思いを話せる人も周りにはいなかった。まったく将来が見えてこない。もしかしたら大学院へ行くという思いすら、叶わないかもしれない。どこかでそんな度胸がないことも薄々感じている。

  でも、学ぶことはいついかなる時でもできるんじゃないか、それが学びじゃなかったのか。整った環境であることが望ましいけれど、図書館や本屋さんで有名な論文は本の形になって残るし、有名な論文は出版されている。そもそも大学に行かなくても学ぶことはできる。生きることは学ぶことのはず。そう思うとそんな夢だったものは、別に諦めるというより、日常生活に溶け込むという、生活の一部にもう既になってることに気づく。まさにわたしが望んでいた形だ。

  わたしはたぶん大学院への夢は諦めるけど、学ぶことと自分で問題や解決方法を導くことはたぶん生きている限りやめないと思う。そもそも研究者になりたいわけではなかったし、(実際博士という肩書きはかっこいいと思う)でも今のわたしに日常生活で考えること問いを見つけること、そして方法を吟味していくことの流れを止めることはたぶんできない。

  そういえばちょうど今日「ブックショップ」という映画を見て叶わな夢、応援されない夢というものは確かにこの世には多く存在するけどその人が持っていた情熱や勇気、夢は誰かに受け継がれてゆくものなのだなあと思ったりした。私はそんなに人に影響はきっと与えられないけれど、大学院を目指したいと思ったその時の自分の想いや情熱、エネルギーは絶対に無駄にはならないと確信している。

  そんなこんなで紆余曲折ありますが、自分なりにこれからも自分が生きやすいように生きる。それに尽きるなあと思っている。

  うまくいけばあと半年間の大学生活。いろんなことが狂ってしまって苦しい日々もあるけれど、前を向ける日が多いといいな。

  明日も学ぶことだけはやめないで生きる。学ぶために生きていく。

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 昨日、東京に帰ってきた。一夜明けた今日は早速大学に行って本を数冊借りてきた。読みたいがなかなか全て手が出せないものは後ろめたさはあるものの借りている。Amazonのお気に入りに登録してある本を片っ端から検索をかけて本を探した後に閲覧室でじっくり眺める。分厚い本が山のように重ねられてしまい、とてもじゃないけど現実的でない量になったので今読むべきではないと感じたものは一旦棚に戻した、そう言えば、受験期に参考書は一冊を何度も何度も繰り返して解いた方が確実に力になると教えられてきたので読書も同じ本を読み返して読んだ方がいいのかもなと量だけを見ていた私は最近は思ったりしている。結局は量より質なのだ。勿論、量はある程度必要で、それは多分自分の中でどれをどのくらいの力で読めばいいのか判断するための「量をこなす」だと思っている。

 さて、大学へ着いたら妙に賑やかだったので何かなと思ったら今日はオープンキャンパスだった。ふと5年前の今頃は新天地でワクワクしていたなぁと自分のことを思い出したりもした。オープンキャンパス以外で初めて自分一人で大学のキャンパスに足を踏み入れたあの日、何もかもが初めて見る景色で、どの建物がどんな機能を果たしているのかまるで分からなかった頃を思う。もうあの頃の感覚は思い出の一部でしかない。

 先日、先生に「ここに何年いるの?」と聞かれたので「もう5年目です」というと「ベテランだね」と言われた。確かに、もう手垢まみれのしがない大学生だよなあと思ったりもした。(早く卒業したい)

 昨年の12月頃から実家で過ごしていたから他人と共有する人生が常だったのに、昨夜からそんな他人との糸がプツッと切れてしまったみたいに関係や接触が一切合切なくなってしまった。なんとも寂しいような。でも悲しくはない。ひとりは好きだと思っていた自分にとってはひとりが寂しいという感覚があることの方が新鮮でまだハッキリと言語化できない心持ちではある。だけどたぶん悲しくはない。少し寂しいだけだ

(妙に強気)

 学校が始まるまでこんな気持ちを抱えつつまた新たな出会いとか楽しみとか或いは挫折とか色んなものを感じていきたい。ベテランだけどドキドキしたり緊張したりなどそれなりにフレッシュな気持ちはあるものだ。

 2泊3日の東京滞在を終えて気づけばもう3月になっていた。

 東京へ行ったのは、最後のゼミ旅行に参加するためで、私は今年一緒に卒業出来ないので、本当に最後になってしまう人もいたかもしれないなあと思うと尚更寂しい。ゼミの先生は相変わらず食べることが大好きで、会話の端々で学生への愛を感じる。誠に慈悲深い方である。こんなに先生と距離が近くなることは人生で初めてなので終始距離感が分からないのだけれど、きっとどんな距離感の人でも対等に接してくれるそういう先生だ。

 みんなのことは決して忘れないと先生は言ってたけど、今まで何人の学生とそういう出会いと別れを繰り返してきたのだろう。私なんかその他大勢のひとりなのではと思ってたけれど、先生は本当にそう思っているように思えた。

またいつか先生~!と研究室を開けたら、いつもの笑顔で迎えてくれそうだな。思い出すだけ  

 ところで私は今年の9月卒業に向けて体調を整えている。気づけばあと少して来年度がスタートし、学校が始まってしまう。

 昨年4月はキラキラの新入生の雰囲気に圧倒されて、授業に行けなかったり、訳もなく涙が出て部屋に閉じこもってたから、今回も不安ではあるのだけれど、先生の「大丈夫です。適当にしていれば。」という言葉を信じてキラキラの新入生に負けないくらい。勉強するぞ。気合いだけはあるので、このまま気持ちを保ちつつ、とりあえず卒業を目標にやっていこう。それから後のことは、またその時考えたらいい。迷う時間があることは、選択肢がないことよりも恵まれていることなんだ。

 母があなたは福運がある。そしてそれはあなたが生まれ持ってきたものだから、と言っていあ。傍から見たら幸せなことじゃんと僻まれてしまっても私が望んで持って生まれてきたものだから大切にその人生を享受していかなければならないね。今はそういう気持ちでいる。